福厳寺の葬儀についての考え方

もっと親孝行をしておけばよかった

お母さん、もういちどあなたに会いたい

人はなぜ葬儀、供養を行うのか

人類の祖先が初めて葬送を行ったのは今から5~6万年前、ネアンデルタール人の時代だと言われています。1960年、アメリカの人類学者ラルフ・ソレッキらが、イラクの北部にあるシャニダール洞窟から、9体の遺骨を発掘したのです。

遺骨の周りからは、献花した花粉や大きな焚き火の跡が見つかっており、彼らが家族や仲間の死を悼み、火葬埋葬などの葬送の儀式を行っていたことが分かっています。

シャニダールでは同時に、狩りや戦で負ったとみられる負傷の跡が色濃く残る遺骨も見つかっており、そこからは、傷ついた仲間に寄り添い、養っていた様子が想像されます。人類の祖先が、厳しい自然界を生き抜くためには、仲間と助け合い、支え合うことが必須でした。そしてこの、家族や仲間と支え合う関係を大切にする生き方が、仲間の死を悼む心を育み、葬送儀礼へと発展していったのです。

増える自殺と孤独死

ネアンデルタール人の時代、生き延びることを考える人はいても、死ぬことを考える人はいませんでした。ところが現代の日本では、毎年3万以上の方々が自殺をしています。今増えているのが若者と高齢者の自殺だといわれます。人生の荒波を何十年も乗り越えてきて、最期の最期、自ら命を絶たなければならなかった背景には、何があったのでしょうか。

ネアンデルタール人の時代、仲間と寄り添って生きる人はあっても、孤立して生きる人はありませんでした。ところが現代の日本では、毎年3万6千人以上の方々が孤独死をしています。その過半数以上が、55歳以上の男性だと言います。

縁あって家族をつくり、懸命に働いて家族を養い、でも最期はたった1人で、誰にも見送られずに逝く。遺族があったとしても、その遺骨を引き取る意思を示すものはいない。そのような寂しい死が今増えつつあります。一体なぜそのようなことが起きるのでしょうか。

人は一人では生きられない

ネアンデルタール人の時代、「今日」を生きることは、命がけでした。一人で外に出歩けば、いつ猛獣に襲われて命を落とすか分かりません。突然の気候の変動で寒波が襲っても、ジャンバーもなければ、暖房機器の備わった家もない。協力して火をおこし、体を寄り添わせて寒さをしのぐしか方法はありません。自然界にあって、人類の体は非常に脆弱です。だから人々は「族」というコミュニティーを作り、その仲間とともに寄り添い、協力しあって生活を営んだのです。

日々の生活にも仲間の存在が欠かせません。男たちはグループで狩に出かけ、何十キロも歩き回る。時には数日もの間獲物が得られないこともある。その間、女たちは交代で子ども達の面倒をみて、木の芽や植物などを採集しながら、男たちの帰りを待つ。やっと男たちが帰って来れば、大喜びで彼らを迎え、彼らの無事と自然の恵みに歌と踊りで感謝を示す。それが当たり前の暮らしでした。

ところが現代は違います。お金さえ出せば、あらゆる生活必需品やサービスが手に入ります。お腹が空いて近所のコンビニやスーパーに行けば、調理済の食べ物や飲み物が手に入リます。ボタン一つで炊事、洗濯、室内気温のコントロールまでが出来ます。インターネット網や端末が発達したおかげで、家に居ながらにして、世界中の物や情報が手に入ります。しかし、こうした豊かさや便利さは、人間関係の煩わしさや面倒を避けて生きたいという願望をも可能にしました。

確かに、あまりに密で干渉的な人間関係は、誰にとっても嫌なものです。出来ることならば、面倒くさい関係や、やかましいことを言う人を避けて、自由気ままに暮らしたい。人間関係に疲れたときには誰もがそのような気持ちになるものです。現代社会には、それを可能にする環境が整っています。家族や友人、近所との関係を絶って生きることさえ可能になりました。しかし、やはり人間がたった1人で生きていくことはできません。若いとき、体が自由に動くときには、それが可能な気がしますが、結局は一時期の錯覚に過ぎないのです。その現実と感謝を忘れ、自分のエゴ、都合だけに生きれば、いつしか、生きる上で欠かせない「関係」を失ってしまいます。何より、人間にとって最も大切な「他を気遣い、思いやる心」を失ってしまうのです。

私たちは「関係」に守られて生きている

人生には、人間関係に助けられるときが4つあります。

1:苦難のとき

人生には楽しき時と同じくらいに苦の時があります。何人も人生に訪れる大小の苦難を避けて通ることはできません。学校や職場にも苦があります。家庭にも苦があります。すべての苦難を自分1人で乗り切ることは出来ません。誰かの支えや励ましがあってこそ、人はその苦難を乗り越えることができるのです。

2:ケガや病気を患ったとき

生きていれば病気にもなります。ちょっとした疲れや風邪ぐらいならば、数日安静にしていれば回復することでしょう。けれども、大きな事故や病気を患えば、誰かしらの支援や励ましを必要とします。

3:老いるとき

人は産まれた瞬間から老います。どんなに美貌を誇っても、どんなに若さを取り繕っても、時事刻々と老いていきます。体が硬くなり、体力が衰え、視力や聴力が衰え、物忘れが激しくなり、免疫力が落ち、かつては出来たことが出来なくなります。焦りやいらだち、さみしさや不安が襲いかかります。

4:死ぬとき

人は死につつあります。生きるということは、死に向かって歩み続けることでもあります。いつ、どこで、どのように死ぬのかは誰にも分かりません。

これら4つの苦に直面したとき、人は初めて「関係」のありがたさに気づきます。家族のありがたさ、友人のありがたさ、ご近所のありがたさなど、他人との関係の中に生きていることを思い知らされるのです。

「心の弱さ」が「関係」の崩壊を招く

人間の心は自分が思っている以上に脆弱(弱い)です。普段、何事もなく平穏に生活できるうちは、そのことにあまり気づきませんが、ひとたびお金がない、仕事が思うようにいかない、親子・夫婦・学校や職場などの人間関係がうまくいかない、といったことが続くと、その心の弱さが露呈します。心の弱さは、不安、恐れ、嫉妬、欲、怒り、愚痴など、混沌としたエネルギーとなって心身に影響し、心身のバランスを大きく崩します。

そしてつい、思ってはいけないことを思い、言ってはいけないことを口にし、やってはいけない行為をしてしまいます。その結果、これまでは順調だった周囲との関係が崩壊してしまうのです。厳しい自然を生きる上で、その身体の脆弱さを補うために獲得したはずの仲間との関係が、「心の弱さ」つまり「未熟さ」によって壊れてしまう。何と皮肉なことでしょう。

「心の弱さ」の原因

では、その「心のもろさ」は一体、どこから来ているのでしょう。その答えは次の3つにあります。

1:自ら考える力の衰え

現代は便利で豊かな時代になりました。ところがそのために、自らの頭で考えて工夫する機会を失ってしまいました。お金を出せば、簡単にモノやサービスが手に入るため、自らの頭で考えて生活を向上させたり、困難を乗り越えたりする力を失ってしまいました。

2:智慧の欠如

現代は、テレビやインターネットの普及で、情報がたくさん手に入る時代となりました。しかし、色んなことを知っているようでいて、実は本当に大切で必要なことを知らない。短期間で消費される情報ばかりを追いかけることに忙しく、人生の道理や摂理を説いた神仏の教えに触れたり、よりよく生きるための哲学や道徳について深く考えたりする機会はほとんどありません。

3:死生観の欠如

「メメント・モリ」という言葉があります。ラテン語で「死を忘れるな」という意味の警句です。多くの人々が、「死は他人ごと」であるように生きています。しかし、産まれた命は必ず死にます。その死の現実を見つめることは、生の現実を見つめることでもあります。ところが、「死」を身近に体験することが少なく、死について考える機会がない現代の日本では、老いから若きに至るまで、死生観が欠如しており、それが「心の弱さ、未熟さ」の原因にもなっているのです。

葬送は死者のためならず

葬送を考えるとき、そこには二人の人があります。1人目は、生前に自分の逝き場所を考える人。2人目は、親や連れ合い、家族の供養先、埋葬先を探す人です。そして今、そのどちらもが、迷走している様子が見受けられます。

前者は、「子どもには迷惑をかけたくないから、自分らしい最期を遂げたいから、葬儀も埋葬も全部自分だけで決める」という迷走。後者は、「自分の生活に手一杯で、親の老後や死まで考える余裕がない」という迷走です。

なぜそれらが、迷走なのかと言えば、「葬送は、死者のためだけに行うものではない」という葬送の根本的な意義が欠如しており、自分たちの都合だけを考えているからです。

葬送の根本的な意味とは、身近な人の死に向き合う過程で「命あるものは必ず死ぬ」というその道理を学ぶことにあります。

看病、看取り、通夜、葬儀、納骨、供養、、、愛する家族の生が死に向かって変容していく姿に寄り添いながら、普段は他人ごとでしかない「死」を、身近な人の死に寄り添うことによって、自分ごととして感じる。その「命の学び」が、葬送儀礼なのです。

そして、いつかは訪れる自分の死を想像し、「いかに生きるか」という覚悟を決める。いずれ死にゆく命だからこそ、きちんと生きる覚悟を決める。それが葬送儀礼の意味なのです。

「お母さん、もう一度あなたに会いたい」

今、葬送に迷ってお寺を訪れる人たちが増えています。「忙しい、時間がない、お金もない、自分1人生きていくのも精一杯なのに、育児や仕事が大変で、親の面倒など看れない」そう嘆く子どもたち。そんな子ども達に遠慮して「子どもに迷惑をかけたくない」と、密かに死に場所を探す、年老いた親たち。誰にとっても、生きることは楽ではありません。

時間は飛ぶように過ぎていきます。やりたいこと、やらなければいけないことは山のようにあります。けれども、親子がお互いのことを思いやる時間は、子どもの成長とともに減っていきます。葬儀の後、親を亡くしたお子さん達が口にする言葉の数々。その中には後悔の言葉も少なくありません。

「こんなことになるのなら、もっと親孝行しておけばよかったお母さん、もう一度あなたに会いたい」

大丈夫、葬送、供養をきちんと執り行うことこそが、人生最期で最大の親孝行なのだから。